FC2ブログ
091234567891011121314151617181920212223242526272829303111

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--------(--) |  スポンサー広告 |  CM(-) | Top▲

ここが、ここが二重橋♪

東京だよ、おっかさん(length 0:59)  

皇居正門石橋

皇居正門石橋

皇居正門鉄橋

皇居正門鉄橋

皇居前広場から手前に見える橋が石橋(左の写真)、すぐ奥に架かるのが鉄橋(右の写真)です。二本並んで橋が架かっているので二重橋と考えられがちですが、正確には奥の鉄橋が二重橋です。木造の時に橋桁が高かったので、土台の強度を高めるために中途に丸太が組まれていて橋が二段に架けられているようなので二重橋の名が起きました。
明治21年(1888)、木造の二重橋は鉄橋に架け替えられます。石橋が、前年にやはり木造から架け替えられています。

img代用文字 景観美と強度を兼ね備えた二連アーチ型の石橋を設計、造営したのは久米民之助です。
文久元年(1861)、沼田藩祐筆久米権十郎正章の嫡男に生まれます。四歳で母が亡くなり、父は維新で武士の身分を失い生活が困窮します。その父とも十二歳の時に死別しました。父の門人から援助を受けながら困窮に耐え、苦学して工部大学校(東京大学工学部)を卒業し、のちに宮内省に入省します。皇居造営事務局御用係となり、皇居二重橋の設計、造営に携わったのです。
後年、民之助は荒廃した沼田城址に心を痛め、「故郷へ恩返しを…」の思いから、私財を投じて私有地となっていた城址を購入し、公園に造営して沼田町に寄贈しました。市民の憩いの場、沼田城址公園が今日あるのは偏に民之助の郷土愛に依るものです。
久米民之助が眠っているのは、正覚寺です。

スポンサーサイト
タグ:沼田史
2013-10-20(日) |  世界のぐんま(地域) |  コメント(0)  | Top▲

正覚寺

天正17年(1589)11月、北条家臣・猪俣範直の謀略によって名胡桃城を掠奪された城代鈴木重則は、おのれの不甲斐なさ恥じて正覚寺(現:沼田市鍛冶町)で切腹をします。秀吉は、この事件を小田原征伐の大義とし、事実上の天下統一を果たしました。

チラシ表さて、沼田市では11月10日のイベント「戦国ストリートin沼田2013」で行われる武者行列への参加者を募集しています。イベント告知のチラシを飾るのは「戦国無双3」(©コーエーテクノゲームス)のキャラクター稲姫(小松姫の幼名)です。二代目真田沼田城主信幸の正室です。
慶長5年(1600)7月、真田信幸は父昌幸、弟信繁(幸村)と共に上杉景勝を討つため会津へ向かう途中、下野・犬伏の陣に石田三成から決起の密書が届きました。ここで、父と弟は三成勢に、信幸は家康勢にと分かれる決断(犬伏の別れ)をします。信幸は小山の徳川陣営に向かい、昌幸・信繁は上田に引き返します。昌幸は道中、孫(信幸の子)の顔が見たいとの口実で沼田城への入城を試みました。城主信幸の留守を守る小松姫は自ら武装して、「例え義父であっても今は敵味方の間柄」と入城を阻止します。昌幸は、小松姫の決意に感心して引き上げ、正覚寺にて一泊の休憩をとりました。翌日、小松姫は正覚寺を訪れて昌幸と孫との対面を果たします。
女傑にして、良妻と伝えられる所以です。

大蓮院殿の墓

大蓮院殿の墓

墓の案内板

墓の案内板

20年後、小松姫は病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中の武蔵国・鴻巣にて亡くなりました。火葬、分骨されて正覚寺にも埋葬されております。
享年48歳。法名、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。

タグ:沼田史
2013-10-08(火) |  世界のぐんま(地域) |  コメント(0)  | Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。