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沼田大明神

沼田城址水の手曲輪(地元では下公園と呼ばれている)から北を眺めると錐型の三角山(戸神山)と椀型の高王山が一望できます。1581年(天正9)3月、沼田平八郎景義が高王山に本陣を構えて沼田城を眼下にしていました。

三角山頂上から望む沼田城址

下公園から見る北方向の景色


群馬のコロラドリバー片品川右岸の丘陵地が、かつて"滝棚の原"と呼ばれていた沼田台地です。沼田氏12代顕泰は、流水のないこの"滝棚の原"に延長14キロの用水路を開削して台地の西先端に沼田城(蔵内城)を完成させました。城下の町割りもしました。これが、今日の沼田市街地のルーツになります。
顕泰は正室の没後、大楊村郷士金子新左衛門の妹"ゆのみ"を後妻に娶り、景義を授かります。"ゆのみ"の兄も美濃守泰清の名を頂いて、重臣として召し抱えられます。
その後、甥の景義を城主に据えようと画策した金子泰清の謀略に乗せられた顕泰は、沼田氏13代朝憲(顕泰の実子)を殺害してしまいます。これに怒った朝憲の岳父に反撃された顕泰は、旧縁の会津城主の許へ遁走しました。"ゆのみ"は遁走途中で凍死し、逃げ延びた顕泰も間もなく会津の地で没します。
騒動後の沼田城は、上杉謙信、北条氏邦、武田家臣・真田昌幸と支配者が移り変わって行きますが、金子泰清はその時々の君主に重臣として仕えていました。1580年(天正8)6月に、真田昌幸の支配下に置かれますが、金子泰清は沼田城代の一人として取立てられていました。

会津へ逃れてから12年、平八郎景義は沼田城奪回のために挙兵し、優勢に戦を進めて沼田城の目と鼻の先の高王山に陣取っているのです。景義蜂起の急報を甲府で受けた真田昌幸は兵を率いて向かっても間に合わぬと判断し、金子泰清に宛てた武田勝頼の偽書状を作り飛脚に届けさせます。
"策略をもって沼田景義を討てば、利根川西の千貫文(二千石に相当)の領地を与える。武田勝頼" この書状を読んだ金子泰清は、嘘の誓約書をしたためて高王山の沼田景義を訪ねました。
「おぬしが沼田へ帰ってくるのを待っていた。攻めて城を奪回するのは難しい。城内の兵の大半は、おぬしを城主に仰ぐと言っている。わしが秘かに城内に手引きをする」と、涙を流して説きました。景義は、かつて自分を城主にしようと画策した伯父の言葉を信じました。
翌日の3月14日、景義は二十数名の近臣を従えて高王山を下り、麓の観音堂(東町田)で武具を解いて平服姿で金子泰清の案内に従い、沼田城の水の手曲輪から入城します。
出迎えた沼田氏の旧臣山名弥惣が景義に従うかのように装い、刀を抜いて背後から突き刺します。つづいて金子泰清が振り返りざまに脇腹を刺しましたす。豪勇と謳われた流石の景義も「金子、金子、金子」と三度叫び、悲惨な最期を遂げました。

沼田大明神

平八石


真田昌幸は、沼田城水の手曲輪の片隅の石の上に載せられた景義の首実検をした後、旧沼田氏家臣の離反を恐れて景義の亡骸を、かつて沼田氏が居城としていた小沢城跡に埋葬し、沼田大明神として祀りました。
金子泰清は、約束の領地を与えられることもなく、9年後には追放されてしまいます。

"咲き残る 花は枯野の あはれかな" 籾山其風

2013-06-21(金) |  世界のぐんま(地域) |  コメント(0)  | Top▲
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